古澤良治郎
津上研太
藤ノ木みか

菅原文
中村尚子

PLATZ
PLCP-053

収録曲


西荻の山バト〜遠い遠い
わらった
ぐるぐる
多分思ったことあんまり
間違ってない!
DAWN
たまご
それいけ良治郎!!
きいろいきいろいきいろい
TOBO-TOBO
み(実・身・未)
キツツキさん
私を愛して
悲しくて曲名も思いつかない
Tomorrow Next month
Nextyear Next Life
Dedicated to 河野さん

みかん
森鷦 Menny Winters
雪鳥

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『LIVE at AKETA ね.』とともによろしくお願い致します。

各誌に寄せられた解説

「Swing Jornal」誌 1996.12月号
うーん、これは困った。なんとも評価の難しい作品なのだ。ぼくの大好きな良ちゃんこと古澤良治郎に、”ピットイン”30周年コンサートで、いたく刺激的だった期待の津上研太、それにみかさんという女性ボーカル、この3人のトリオ作だが、はっきり言ってJAZZではない。しかし古澤らしい、ナイーブで、なんとも言えぬハートフルな音が語っている。”こんなもん作ってみました。ね〜”という”ね”かと思ったら、”音であり、根である”そうだ。稀代のメロディー・メイカー、古澤の心象を写し取ったホロッと愛らしい音だ。(小西啓一氏)
「JAZZ LIFE」誌 1996.12月号

<ほんわかとした人柄が滲み出る個性的な1枚>
発売、販売などの面で新システムとなったアケタズ・ディスクの初陣となる古澤良治郎のリーダーアルバム「ね」はタイトルやアルバム・ジャケットからも、刻まれた音がほんわかと聞こえてきそうなほのぼのとした作品だ。スタイルとしてのジャズはもちろん、使用された楽器にも、ほとんどこだわりというものがなく、古澤をはじめとしてここに参加したミュージシャンたちの日常的な感覚がじっくりとにじみ出ている。それは彼らが育ってきた地域性にもよるのだろうが、自分たちにしか創作できない音楽という所有格で語ることができる音楽が示されている。それは日本というよりも、もっと狭い範疇に入る、これこそ個性的な音楽が堪能できる。(杉江幸彦氏)

<今月のイチオシ推薦版>
あの小さな体のどこに、あれほどのエネルギーが詰まっているのだろう。あの細い足のどこに、あれほどのバネが隠されているのだろう。そしてあの髭面のどこに、これほどの無垢な愛や夢が満ちているのだろう。これは古澤良治郎が描いた素朴で美しい絵画であり詩集である。私は涙が出そうなほどにこの音楽に感じた。ますます古澤のオヤジのファンになった。藤ノ木みかさんの作詞と歌に、津上研太のサックスに、古澤良治郎の愛とセンスに、乾杯。(ディスク・イン立川)

レコード・コレクターズ」誌 1997.1月号
渋谷オーケストラやデガショーなどで大活躍中の古澤良治郎が藤ノ木みか、津上研太と組んだグループ「ね」の第一作。元来ジャンル分けの無用の人だが、本作でも親指ピアノやマリンバを多用してアフリカ的なほのぼのとした乗りのある世界を展開、ボーカルも自然から聞こえてくる風のささやきや木の葉の擦れる音に言葉をつけたような感じ。ピグミー的ポリフォニーやアラブ、東欧など世界の民族音楽の諸要素も見え隠れして聴くほどにクラクラします。(藤原孝弘氏)
「MJ 無線と実験」誌 1997.3月号

去年の秋からずっと発売を待っていたアルバムだった。「ね」のファースト。彼らは、月一度のペースで、東京西荻のアケタの店でライブを行っている。狭いステージいっぱいにアフリカや南米のパーカッション、キッチンボウル、オモチャ、オミヤゲ品の類が並べられている様は、見るだけで楽しい。そして、3人の音、リード楽器は基本的に津上のサックスのみ、その彼も、もっきんやパーカッションに回ることがある。原始的で、あたたかく、悲しく、わきおこる群雲のように広がっていく音。ミニマルではあっても、箱庭的ではない、彼らの音は、風となって草原をわたっていく。草原に遊ぶ野兎となり、野生馬となり、そして大地となる。隙間の多い音空間を支える古澤のグルーブ、ときに静かに涙を流し、にっこりと笑い、ときに吠え狂う津上のサックス、シンプルでいながら大きな存在感を持つ藤ノ木のパーカッションと歌、彼らが描いてみせるのは、我々を生かし、そして殺す、あたたかく厳しい自然だ。(森田義信氏)

 CDのセロファンをはがし、ケースを開けるとにこやかな3人の記念写真?が飛び出し、その裏には「タイコは太古を、ねは音であり、根でもある。仙台・西荻五十年!!あとちょっと 古澤良治郎」とある。彼もまた一般にはジャズ・ミュージシャンという規定をされながら、その実、時にジャズに背を向けて、音楽の根を、そして音を楽しみ、発信し続けている。子供のように、そして達観したかの如くに。
 こうして無邪気さに彩られた音楽を聴いていると、いかにある代名詞(分野)でくくられた音楽を語ることが楽かを思い知らされる。この1曲一曲が意表をつかれた内容を持ち、無頓着、無防備で無垢、あっけらかんでナイーブ、そんなふうにしか言いようのない音楽たちは、まるで学び過ぎた、あるいは知識で着ぶくれしたものをもう一度そぎ落とし、そこから音楽を見つめ直した作品だと言っていいかもしれない。
 こんな楽器でこんな音楽をやりたい、あるいはこんなふうになっちゃったというゆとりのある即興はヨーロッパのそれとは、かなり聴こえ方が違う。ヨーロッパの持つシリアス性はここにはないが、古澤良治郎の音楽は山を歩き続ける旅人のように、だれも気兼ねのないくつろぎから、誰にも助けてもらえない時に発揮する厳しさをもっている。この牧歌的アルバム、意味もなく流しっぱなしにしている時「ね」から、いろんなものが貰えそう。それが結論のような気がする。(今井正弘氏)