=古澤良治郎さんの事=

良治郎さんが不思議な散歩に出かけて一日一日と過ぎて行きます。
くそ真面目なドラマーは負けず嫌いで意地っ張り!。
融通の利かない努力家は人一倍一生懸命に音楽人生を謳歌して
貧乏の無い天界へと旅立ってしまいました。
不器用で正直者はこの世には珍しいぐらいに純粋で真っ直ぐな性格でした。
嘘のつけないドラミングから多くの感動をもらいました。
誰もがくちずさめるほのぼのメロデイーは一体何処から生まれたのだろう。

毎日疲れてしまうほどに真剣に生きて、休みの嫌いな人でした。
コンビを組んで34年、文字通りとことんの付き合いだったですね。
意固地で意地っ張りで大概めんどくさい人だったのに逝く時はあっけなかった。

「オレ!帰る」と酒場で宣言する
「ほんとにかえるヨ」
このやりとりを毎回下手な芝居の様に繰り返し、やっと帰る変な叔父さんでした。

故川端民生と熱い音楽論争から喧嘩のようになって、古澤は破れた。
その日の朝方5;00ごろ泣きながら電話があって、
「オレもうバタとは一緒にやれないかもしれない!」なんて落胆してた。

ボブ・マーレーの東京公演を観た翌日に事務所に来て
「オレ、ドラム辞めてもいいからボブ・マーレーのぼうやになりたい!」
顔を見たら本気だった。


朝出勤したら事務所のドア前に正座して
「昨日はスミマセンでした」としきりに謝っている。
どうも酒を飲み交わしている内に
「いつでも古澤良治郎のマネージメントから手を引く」
と云った事を間に受けてしまったようだ。

キジムナツアー中、毎日リー・オスカーのアルバムをヘッドホーンで聴きながら
「オレ、こいつに会いたい。一緒にやれたら死んでもいい!」
初渡米の時、機内で「サイトシング」を覚えられなくて、当時コロンビアのデレクターだったサイトウさんがスイングするからサイトシングだと覚えた。

離婚して一年が過ぎた頃、愛娘祥子ちゃんを思い出しては毎日泣いていた。
ベオ・カリーニヨ(良治郎さんの不思議な散歩にに入っている)は愛娘と世界中の人へ愛を送った作品です。

豚汁定食に納豆を付けるのが大好物でした。
高速道路のサービスエリアレストランに豚汁定食がないと不機嫌でした。

毎日パチンコに凝っていた時期があります。
通帳とハンコを持って二千円下ろして西荻駅前で勝負!10分で負けて又銀行に行って二千円下ろして打つ、残高が無くなると事務所の阿部さんに頼んで一万円補充してもらう。勝った時はいい曲が出来た時と同じ様に無邪気に喜んで饒舌となります。

ラッコ、キョン、ビーバー等動物をテーマにした曲がありますが、自分以外に不思議な動きをする挙動に興味を覚えるのです。これは人間にも同じですから不思議な民族に出会う度に新曲が生まれます。

人類のルーツに関しての知識は大学教授以上で、研究熱心でした。

女性の付けるブラジャーと云う存在を知らずに、音大時代に女生徒の背中を叩いたらゴツゴツしてる?
女子はみんな何処か骨折しているのかと思ったそうだ。

音大を受けるため仙台からレッスンを受けに上京する、その度に上野駅付近にて補導されたり、知らない人にご飯を食べさしてもらったり、一度誘拐されそうになったと話していた。お風呂に入れり自宅に連れていかれて、ネ。


音大の先輩本田竹広とあのころ事務所の社長だった私、川村年勝に対しては異常なほど敵意を持って居り
「オレ、何時だって勝負してやる!絶対負けない」なんて意味の無い意地をみせる。

代表作となった「エミ」(キジムナに入っている)は前奥さんの文枝さんを想って書いた作品です。ふみと書くと照れくさいから「エミ」にしたのです。
一番不遇な時期で西荻の喫茶店「オーク」でバイトしながらメロデイーが浮かんで来たんだよね!

そっちに行っても又バンドを組むだろうから本田さん(P)とバタと(B)すぐトリオが組めるね?大出も(G)いるし。
卓も阿部ちゃんもいるからマネージャーも全然心配ないよ!

ミュージシャンである前に日本男子としてのプライドが有る人でした。
65歳と短い生涯でしたが文字通り音楽一途の素晴らしい生き方でした。


「古澤良治郎!ばんざ〜い」

2011年1月16日告別式にて川村年勝氏よりいただいた弔辞より